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台湾と山口をつなぐ旅② これが私の故郷だ 長州黒幕三人組(栖来ひかり)

これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる

あゝ おまへは何をして来たのだと 吹き来る風が私にいふ

日本の近代詩に大きな足跡をのこした詩人・中原中也最後の作品『帰郷』。その一節が刻まれた詩碑が、中也の故郷、山口県は山口市湯田温泉の井上公園のなかにある。井上公園とは、幕末から明治にかけて活躍した政治家・井上馨(かおる)(1836-1915)を記念した公園である。

湯田温泉に生まれた井上馨は、藩校明倫館で学んだあと江戸に遊学し、生涯にわたる盟友・伊藤博文と出会う。一時は尊皇攘夷思想に傾倒して過激な運動にかかわるが、のちに長州五傑(井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文、井上勝)としてイギリスへ密航留学した際に、西洋との国力の差を目の当たりにした。それからは、鎖国中だった江戸幕府を開国させる方向に転じ、明治政府樹立後は政財界の重鎮として大きな力を振るった。もともと実業の才能に長けていたようで、長州五傑の留学の際も藩から出る資金では足りないところを、井上が調達してきた逸話が残る。明治維新以降の実業界・財界における井上の力は絶大だったとみられ、三井財閥や藤田組、毛利家などの財産家と組み、どうやら今でいう経営コンサルタントのような役割を担っていたようだ。

日清講和条約後に、台湾の鉱山の採掘権はすべて日本政府が握った。台湾北部の港町であり、金や銅はじめ鉱山として栄えた基(ジー)隆(ロン)では、西側の瑞(ルイ)芳(ファン)エリアは藤田組に、東の金(ジン)瓜(グア)石(シー)は田中長兵衛という人による田中組に、それぞれ採掘権が与えられた。

藤田組(のちの藤田財閥、現・DOWAホールディングス株式会社)は、山口県萩(はぎ)出身の実業家・藤田伝三郎(1841-1912)によって創立された。藤田は大阪を拠点に事業を拡大し、建設・土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などに手を広げて一大財閥をつくり、民間で初めて男爵の称号を得る。幕末当時は高杉晋作の作った奇兵隊に参加し、そこで築いた井上馨や山縣(やまがた)有(あり)朋(とも)ら同じ長州出身の人脈を活用することで事業を成功へと導くが、台湾基隆における採掘権取得にも、井上馨の力が大きく働いたとみえる。

日本時代に台湾に渡った山口県出身の実業家は、元をたどれば井上馨の影響を多かれ少なかれ受けているように思われる。石油がまだ登場する前の明治期にあって、炭鉱は国の心臓でありエンジンだった。当時、三井財閥最大のドル箱といわれた九州の三井三池炭鉱事業にも関わっていた井上は、国という機関車を動かすのに必要なものを熟知していたのだろう。

藤田伝三郎の甥に、田村市郎と久原房之(くはらふさの)助という兄弟がいる。兄の田村市郎は下関で田村水産(現・ニッスイ/日本水産)を興し、トロール船などの近代漁業を日本に持ち込んだが、弟の久原房之助は久原(くはら)鉱業(こうぎょう)をひきいる久原財閥総帥として「鉱山王」の異名を取った。この久原鉱業、のちに日立製作所・日産自動車・日立造船・日本鉱業創立の基盤ともなった。

1933(昭和8)年に台湾の金瓜石鉱山を田中組から買い取った久原房之助は「台湾鉱業株式会社」を設立し、金瓜石鉱山を1年に100万トンの鉱物を採掘する東洋一の大鉱山に成長させる。

政界に入り「政界のフィクサー」とも呼ばれた久原は、右翼に資金援助をして二・二六事件にも関わったといわれる。戦後はA級戦犯容疑者となるが、辛亥革命のため総額300万円(今でいえば数十億円)を孫文に支援した証文を提出し、不起訴となった。戦後は公職から遠のき、日中・日ソの国交回復に尽力したが、久原がかつて支援した孫文による中華民国(台湾)は、日中の国交回復と同時に日本と断交の憂き目に遭ったのだから皮肉な話だ。

1962(昭和37)年に作家の三島由紀夫から「中原中也と同郷ですよね」と声をかけられた久原は、同年、ついに山口へ帰ることなく鎌倉で病死した中也によってかつて書かれた『帰郷』を知って感銘をうけたという。

猛烈な煙を噴き上げながら走る機関車のように、夢や理想・野望や欲をエネルギーに変えて疾走し、日本と台湾のみならず中華民国(台湾)・中華人民共和国の運命にも関わった久原房之助。その久原もまた、故郷・萩に帰ることなく東京で亡くなる。晩年は借金も少なくなかったようで、かつては孫文も訪れた東京白金台の本宅・八(はっ)芳(ぽう)園(えん)も人手にわたり、八芳園裏の質素な小屋にひっそりと暮らしていたらしい。

「ああ、おまえはなにをしてきたのだと吹き来る風が私に云う」

と、久原もまた心の中でつぶやいただろうか。

中也の『帰郷』の一節が刻まれたの詩碑を見に、湯田温泉の井上公園を訪れた。公園の中ほどに佇んでいる詩碑は、鉱物の結晶のような形をしている。中也ともっとも親交が深かったという小林秀雄の手書き文字から彫られた碑文を「あゝおまへは何をして来たのだ」と目で追った瞬間、ちかくの湯田温泉駅を出発するSLやまぐち号のむせぶような汽笛の音が、吹き来る風にはこばれてきた。

MOBURU+編集部レコメンド!「台湾と山口をつなぐ旅」
今回、記事を書いて下さっている栖来ひかりさんの著書「台湾と山口をつなぐ旅」は、山口出身である栖来さんが故郷をめぐりながら明治・大正・昭和と、台湾とゆかりのある人物を紹介していく物語。台湾と西瀬戸エリアを繋ぐ架け橋を目指す私たちMOBURU+として、とても共感する内容となっています。
歴史的にみてもたいへん関わりの深い関係である台湾と山口。ぜひ栖来さんの旅を疑似体験しながら台湾を感じてみてください。
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ABOUT ME
栖来ひかり
栖来ひかり
(Sumiki Hikari) 文筆家,1976年生まれ,山口県出身。 2006年より台湾在住。 台湾に暮らす日々、旅のごとく新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力をつたえる。 著書に『在台灣尋找Y字路/台湾、Y字路さがし。』(玉山社,2017)、『山口、西京都的古城之美:走入日本與台灣交錯的時空之旅』(幸福文化,2018)、『台湾と山口をつなぐ旅』(西日本出版社,2018)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(図書出版ヘウレーカ,2019)、挿絵やイラストも手掛ける。 作家。日本山口縣人。畢業於京都市立藝術大學美術學部。從事音樂、電影相關製作,後於2006年定居台北。在台北的生活,日日如行旅,旅行即棲所。著書『在台灣尋找Y字路』(玉山社/2017)、『山口,西京都的古城之美:走入日本與台灣交錯的時空之旅』(幸福文化/2018)