愛媛県松山市在住のフリーライター、田村ヨリアキです。
今回も前回に引き続き、近藤に野球を教わった経験のある林さんから、近藤兵太郎の話を伺います。
詳しくは前回の記事をご覧ください。
【実録!】近藤兵太郎 第二章
「”野球の虫”近藤兵太郎、鬼特訓する!」
台湾の嘉義農林高校、愛媛の松山商業高校(以下、松山商業)の野球部を甲子園に導いた名監督・近藤兵太郎。
近藤は複数の異なる野球部で強いチームを作り、有名選手を何人も輩出しました。
近藤の教え子には、のちに巨人軍監督となる藤本定義や、大阪タイガースの監督を務めた森茂雄、巨人軍に入団する呉波(呉昌征)などがいます。
▲松山球場での呉昌征(左)と近藤(写真中央)
彼らは三人とも野球の発展に大きく貢献したとされ、野球殿堂入りを果たしています。
これらの事実は、近藤の監督としての力量の高さを物語っています。
一体、近藤はどのように部員たちを育てていたのでしょうか。
新田高校(以下、新田)で近藤に野球を教わった経験のある林さんに話を伺うと、近藤の選手教育の鍵となる言葉が見つかりました。
それは「野球の虫」という言葉です。
「◯◯の虫」という言葉は、四六時中特定のことに熱中している人を指す言葉。
近藤先生は林さんたち部員によくこう言ったそうです。
『野球の虫になれ!寝ても起きても野球のことを考えろ!夢にも見い!』
近藤は、部員を「野球の虫」になるよう育てていたのです。
今回はこの「野球の虫」というキーワードを通して、近藤の「教え」を紹介します。
これから出てくるエピソードは全て林さんが語ってくれたものです。
今回の記事を読むと、近藤がたくさんの有名選手を育てることができた理由が、わかることでしょう。
“野球の虫”の教え その①
「練習が終わった瞬間、次の練習は始まる!」
近藤が新田高校に野球を教えにきて、すぐのこと。
近藤は林さんを呼びつけ、こう言いました。
『林、松山商業と新田が何回試合してもコールドで負ける理由をお前はわかっとんのか!』
当時の松山商業は野球部黄金時代と呼ばれるほどの強豪校。
近藤はその松山商業のOBでもあり、コーチも経験していました。
当然、松山商業の強さの秘訣を知っています。
その上で近藤は林さんに質問を投げかけたのでした。
林さんが『わかりません』と答えると、近藤はこう言います。
『新田も松山商業も、練習時間は同じ3時30分から8時まで。お前らは8時になったら練習が終わった、と思うとるだろうが、松山商業は8時に練習が終わった時点から、次の練習が始まってるんだ』
どういうことでしょうか。林さんが近藤に話を聞くと、驚くべきことがわかりました。
当時の松山商業の野球部は、練習が終わったらランニングしながら帰り、家に着いたら素振りを1000回やっていたというのです。
それだけではありません。
翌日の朝には誰よりも早く学校に出て、授業が始まるまでみっちり朝練習。
そのままユニフォームの格好で授業を受け、授業が終わったらまたグラウンドに出て、練習をするというのです。
24時間、余すことなく練習に費やす。
まさに「野球の虫」と呼ぶにふさわしい練習方法です。
近藤はさらにこう言います。
『いまの時間の使い方では、新田は100年経っても松山商業に勝てん』
そういうと近藤は、新田高校でも松山商業仕込みの練習を始めます。「野球の虫」による鬼特訓が始まったのです。
“野球の虫”の教え その②
「何があろうと練習を休むな!」
近藤は「1日練習を休んだら、感覚を失う。失った感覚は取り戻すのに3日かかる。だから1日でも休んだらいかん」と部員に説いていました。
そんな近藤の教えの妨げとなる行事が現れます。
それは新田高校の運動会です。
運動会は当日、練習日、準備日を含めると3日間ほどあり、その間グラウンドはもちろん使用できません。
野球部は練習休止を余儀なくされます。
「1日でも練習を休むな!」と言う近藤にしてみれば、とても考えられないことです。
そこで近藤は校長に運動会をやめさせるよう、直談判をしようとします。
しかし、近藤はあくまで野球部の雇われコーチ。
かたや、近藤がやめさせようとしている運動会は年に一度の学校行事。
どちらが重要視されるかは火を見るより明らかなはずです。
ただし、近藤は野球の虫。自分のクビが恐ろしい、などという感覚はありません。
真剣に「運動会をやめさせ」と言ってのけます。
恐れ知らずの近藤兵太郎の直談判が通ったのか、結果的に野球部は運動会の間、別のグラウンドを借りて練習をしていい、ということになりました。
近藤の野球にかける執念が、学校を動かした瞬間でした。
言い換えるなら、それだけ「休んではならなかった」のです。
“野球の虫”の教え その③
「雨の日は座学でセオリーを叩きこめ!」
雨の日はさすがの野球の虫も休むのでは、と思っていると、そうはいきません。
教室で3時間、休みなしの座学が始まります。
林さんは当時のことをこう述懐しています。
「雨の日の座学は辛くて辛くて…普段のグラウンドの練習の方がよっぽどましよ(笑)」
林さんは何が辛かったのでしょうか。
座学で近藤が教えたのは守備のセオリーでした。
守備のセオリーとは「ランナーがここにいて、ボールがここに飛んできたら、守備はこう動くべきだ」という定石のことです。
近藤はこのセオリーを部員に覚えさせるため、実況中継のように架空の試合を口頭でシミュレーションしていきます。
林さんによると、こんな調子だったようです。
「はい、ゲーム始まり。まずはピッチャーストライク。ボールカウント、ワンゼロ。次、ツーストライク。はい、バッター打ちました。ショートゴロ」
この場合、守備はランナーを一塁でアウトにしなければなりません。
近藤は部員にこう尋ねます。
「この場合ピッチャーはどうするんだ?キャッチャーは?ファーストは?」
試合状況を正しく把握し、セオリーを覚えていればすぐに答えることができますが、なかなかそうはいきません。部員にとっては気が抜けない練習だったことでしょう。
近藤はこのシミュレーション野球を9回の裏まで一通りやっていたそうです。
雨の日は、みな頭の中のグラウンドで猛練習をしていたのです。
“野球の虫”の教え その④
「本当の練習」は半殺しになってから!
近藤の前では学校行事も、雨も関係ありません。全ての日が練習日でした。
とてつもない練習量だったでしょう。
しかし、練習量が多いだけでは、強い選手は育ちません。
当然、練習の内容が良くなければ選手は成長しないはずです。
近藤の台湾での活躍を描いた映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」の中でも練習風景は出てきますが、実際はどんな練習を行なっていたのでしょうか。
林さんに練習について伺いました。
ここからはインタビュー形式でお楽しみください。
林「聞こえは悪いですけど…私らにとっての『本当の練習』は、『半殺し』の状態にされてから始まるんですよ」
―「半殺し」ですか!?
林「ノックでも格好良くボールが取れるうちは『普通の練習』なんですよ。私らにとっての『本当の練習』は、走って走って、走った挙句、クタクタになって、ボールが見えんようになりだしてから始まる」
―半殺しの状態になるまでは、本当の練習ではないということですか。
林「そうです。半殺しの状態になってから、取れそうもない遠くのボールに、手を伸ばし、足を伸ばし、なんとか飛びついていく。そうすると、だんだん取れそうもないボールが軽く取れるようになる。それが私らにとっての『本当の練習』なんですよ」
―極限まで追い込むことによって、何か底力みたいなものが生まれるのかもしれませんね。
林「こんな話もあります。練習が終わって7時30分くらい。先生が号令かけて集合したとき、私思わず『あー、しんど』と言ってしまったんです。すると近藤先生は『林、しんどいか』と、こう言うわけです」
―ついつい言った愚痴が先生に聞こえてしまったんですか。怖いですね。
林「『全員帰れ。林だけ残れ』と言われて、そこから夜10時までノック。『走らんかー!』と怒られながら、レフトとライトに交互に飛んでくるボールを追いかけました」
―ええ!居残り練習ですか。凄すぎる。
林「もうクタクタになって倒れたとき近藤先生が一言『林、どうだ?楽になったか?』と。もう何も言えんかった」
―それは何も言えないでしょう…。
半殺しの練習が体に与えた、一生なくならない宝物
1人残されて練習をした林さん。そのときの体験を今も鮮明に覚えているといいます。
近藤の「半殺し」特訓は、林さんにどのような影響をもたらしたのでしょうか。
林「言い方は悪いけど、私は半殺しの目に合わされたことで、お金では買えないような宝物をもろたと思ってます」
―宝物とは?
林「限界の限界まで練習して、もう無理だと思っても、必死になってボールに飛びつく。そうすると、今まで取れなかったボールが取れるようになる。私らはその体験を通して『諦めなければできるようになる』ことを体で覚えました。体で覚えたものは一生とれないんですよ」
―成功体験が自分に染み付いているわけですね。それが一生モノの宝物だと。
林「その経験は仕事や他のことにも通じるんですよ。社会に出ると、何か壁にぶつかることがあるでしょう。もう無理だ、と挫けそうになることもある。でも、僕らには『諦めなければできるようになる』という体験があるから、挫けずに仕事を続けられるわけです」
―なるほど。それはいま振り返ってみて、そう思ったということですか?
林「そうよ。高校生の時は半殺しの目に合わされて『くそー!』と思いよったはずです(笑)」
―そうなんですね(笑)それでも、近藤先生の練習についていけたのはなぜですか?
林「先生の人柄、魅力ですかね。小さな体から出てくる情熱みたいな…言葉でよう言い表せれんけどね。この人めんどくさいけど、一緒にやってみるかと。僕らも先生も、損得抜きに野球がとにかく好きでしたからね」
―それが結果的に、今も宝物として自分の中に残っているのは、すごいことですね。
林「そう。今になってみると、あの時はようしてくれたな、と思いますよ。僕はあれから一度も『あーしんど』と言ったことはありません。この歳になってもゴルフ場で走りまわってますよ」
林さんは2021年現在88歳。卒寿を間近に控えた人とは思えないほど元気で快活です。
その活力のもとには、17,18歳の時の半殺しの練習があるのでしょう。
あれから70年。”野球の虫”はまだ林さんの中で息づいていました。
”野球の虫”近藤兵太郎―
人を惹きつける純粋さ
林さんは近藤の家に行った際に、奥さんからこんな言葉を聞いたことがあったそうです。
「うちの主人は野球以外何にも知らんのです」
近藤兵太郎を端的に現した一言ではないでしょうか。
近藤は、純粋でひたむきな人でした。
どれだけ歳をとっても、変わらず野球の虫であり続けました。
ある意味頑固とも言えるかもしれません。
そんな近藤の純粋さに高校球児たちは惹かれました。
だからこそ、鬼のような特訓にもついていくことができ、野球を通して成長することができたのです。
次回は、勝つための飽くなき追求をし続けた近藤兵太郎による『ルール無用』の野球論をご紹介。さらに、教育者としての側面にも迫ります!
次回に乞うご期待ください!
語り手:林 司朗(はやし・しろう)
昭和8年、愛媛県松山市生まれ。新田高校野球部2年のとき、近藤兵太郎が監督として赴任。近藤野球の薫陶を受け、卒業後は高校野球の審判を約60年間務める。仕事は製麺の研究開発に邁進。冷凍うどんや美川そうめんの開発に携わる。自社の新栄食品を昭和46年に創業し、松山名物「松山ラーメン」や「美川手のべ素麺」などの製造販売を手掛ける。
聞き手:田村 ヨリアキ
愛媛県松山市在住のフリーライター。
写真提供・監修:古川勝三(愛媛台湾親善交流会 会長)