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台湾・愛媛の高校野球の父、近藤兵太郎は超野球クレイジー⁉︎ 【実録】近藤兵太郎 第一回

愛媛県松山市在住のフリーライター、田村ヨリアキです。

突然ですが、近藤兵太郎という人を知っていますか?

近藤兵太郎(1888-1966)は松山出身の野球監督。松山商業高校野球部を初の全国出場に導き、台湾の嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)野球部を5回(春1回、夏4回)甲子園に導いた名将です。

近藤兵太郎の功績は、単に強い野球チームを作ったことにとどまりません。民族に対する偏見や先入観にとらわれず、ただひたすらストイックに野球を教えたことにその真髄があります。

近藤が野球を教えていた当時の台湾(1920年代後半)では「野球は日本人が得意なスポーツ」だと言われており、強豪校のレギュラーは日本人選手が占めていました。そんな中、近藤は「野球選手にとって大事なのはどこの民族かではない、情熱と身体能力があるかどうかだけだ」と選手たちを鼓舞し、特訓し続けました。

その結果、近藤は当時としては珍しい日本人3人、漢族2人、先住民族4人からなる民族混合の野球チームをつくり、全国大会に出場。民族混合のドリームチームとなった嘉義農林高校は、日本人のみで構成された強豪校と闘い、次々と打ち勝ちます。これは台湾野球の歴史を塗り変えた出来事でした。野球選手に大事なのは民族性ではなく、情熱と身体能力だということが実証されたのです。

▲近藤兵太郎率いる嘉義農林高校野球部

近藤の功績は日台の両方で讃えられています。松山市の坊っちゃんスタジアム前広場には顕彰碑が建立され、台湾には近藤の銅像が建てられています。

▲台湾にある近藤兵太郎の銅像(左奥)

▲松山市・坊っちゃんスタジアム前広場にある顕彰碑。近藤の言葉「球は霊なり」の言葉が刻まれている。

しかし、その残した功績に反して、知名度は決して高いものとは言えません。実際、松山在住の私の周囲の人で近藤のことを知っている人はごくわずかです。なぜでしょうか。

近藤兵太郎の知名度が低い理由

知名度が低い理由の一つとして、近藤に関する情報源が少ないことにあります。

そもそも近藤はマスコミ嫌いのため、インタビュー記事などの近藤に関する文献が存在していません。それどころか、帰国後に写した個人写真も一枚のみ。台湾での集合写真はたくさんあるものの、個人写真として現存するものは数枚しかありません。

▲近藤兵太郎の個人写真(林司郎さん撮影)

そのためか、近藤が映画や本、テレビといったメディアで扱われることはあまりありません。

近藤について取り上げたものは今のところ、書籍が一冊、映画が一本あるのみです。

一つは、古川勝三(愛媛・台湾親善交流会 会長)による書籍『台湾を愛した日本人〈2〉「KANO」野球部名監督・近藤兵太郎の生涯』

古川勝三・著『台湾を愛した日本人<2>「KANO」野球部名監督・近藤兵太郎の生涯』。帯には、映画で近藤兵太郎を演じた永瀬正敏のコメントが寄せられている。

もう一つは、台湾で製作され、俳優・永瀬正敏が近藤兵太郎役を演じた映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』です。

『KANO 1931海の向こうの甲子園(2014年/台湾)』

1931年、台湾代表として全国高校野球選手権に出場し、準優勝を果たした嘉義農林学校 野球部の実話を描いた台湾映画。日本人監督・近藤兵太郎が部員たちを熱く鼓舞し、甲子園を目指す様を活写する。製作は「セデック・バレ」監督のウェイ・ダーション。近藤兵太郎役の永瀬正敏のほか、大沢たかお、坂井真紀ら日本人キャストも多数出演している。

どちらも近藤を知る良い助けとなりますが、近藤の輝かしい功績を考えると、あまりにもメディアで取り上げられる機会が少なすぎるのではないでしょうか。
このままでは郷土の偉人が、昔のものとして忘れ去られてしまいます。
危機感をおぼえた私は近藤兵太郎の魅力を伝える記事を書こうと決めました。

ただ、今まで本や映画で描かれてきた近藤兵太郎をそのまま紹介しても意味がありません。
そこで、あの貴重な帰国後の近藤兵太郎の個人写真を撮った、林さんにお話を聞いて記事を書くことにしました。

近藤から野球を教わった林さんが語る「知られざる近藤兵太郎」

林司郎(以下、林)さんは新田高校で2年生の時に、台湾から戻った近藤兵太郎と出会い、野球を教わります。その後、高校を卒業して高校野球の審判員となった林さんは、母校で審判員の練習をしつつ、近藤と交流を深めます。近藤兵太郎について取材するのに、林さん以上にうってつけの人はいません。

▲林司郎さん

林さんは現在「松山ラーメン」で有名な新栄食品(松山市)の社長をされています。

新栄食品にお邪魔し、林さんに「近藤の話を聞かせてほしい」と告げると、林さんはこう仰られました。

林「はじめに言っておきます。本で書かれとる近藤先生はね、一部分だけですよ。フィクションです。映画もそうですよ。映画の一番最初のシーンは近藤兵太郎がバケツに入ったボールをグラウンドに撒くシーンでしょう。あの時、映画の中の近藤は右手でボールをまいてたんですよ。でもね、実際の近藤先生は左利きなんですよ。映画関係者は誰も近藤先生が左利きだって知らなかったんですよ。だからね、映画で描かれている近藤も一部分に過ぎないんですよ。みんな誰も本当の近藤先生のことを知らない」

映画や本で描かれていた近藤が、近藤の全てだと思っていた私は衝撃を受けました。

近藤についてイメージするとき、私の頭の中にはいつも「永瀬正敏さんの演じる近藤」が浮かびました。そして、その人物像や性格を類推するときは、本の中で描かれる近藤兵太郎の生涯を元にしていました。

それが、林さんによると「近藤のごく一部に過ぎない」というのです。

連載タイトルは「【実録!】近藤兵太郎」

それから約2時間。林さんに話をお伺いしました。林さんの口から飛び出すのは、近藤にまつわる多種多彩なエピドード。そのどれもが、近藤と深い親交のあった林さんならではのお話でした。私は、林さんの明朗快活で軽妙な語り口に魅了され、メモを取るのも忘れるほど話に聞き入りました。そして取材が終わる頃、私の中の近藤に対するイメージは180°変わりました!

野球の虫、ルール破り、カン高い声と小さな体…そして勝つためには手段を問わない策士。
“狂熱的な野球クレイジー”とでも言うべき、新たな近藤像が浮かび上がってきました。

これらは、映画や本の中で描かれてきた近藤兵太郎のイメージとはかなり異なるものです。
私は林さんとのインタビュー記事のタイトルを「【実録!】近藤兵太郎」と銘打つことにしました。

この記事を通して、映画や本では描かれなかった近藤の一面を紹介し、近藤兵太郎という人物の全体像を補完しようと思います。
ですから、映画や本とセットで読んでもらえればさらに楽しめるかと思います。

そして、素顔の近藤兵太郎を知ってもらえれば、近藤の魅力がより多くの人に気づいてもらえるはずだと信じています。

70年の時を経て、いま、初めて近藤兵太郎の知られざる素顔が明らかにされます。
それでは「【実録!】近藤兵太郎」、お楽しみください。

【実録!】近藤兵太郎 第一章「近藤兵太郎、新田高校に現る!」

戦後(1946年)台湾から日本に戻ってきた近藤兵太郎。最初は済美高校で事務職をしていた近藤ですが、新田高校の野球部の先生が来て『野球部の練習を見にきてもらえないか』と頼まれたことから新田高校に野球を教えにいくことになります。
15時までは済美高校で事務員として働いて、15時30分からは新田高校で野球部のコーチをする。
これは近藤が、台湾の嘉義商工学校で簿記教諭として働きつつ、放課後には嘉義農林学校で野球を教えていたこととよく似ています。

新田高校にやってきた近藤に、当時高校2年生の林さんが出会います。林さんから見た近藤の印象はどんなものだったのでしょう。

林 司郎(以下、林)「バックネットのところから見ると、ちょうどセンターの後ろ、校舎と校舎の間から人影が見えるわけですよ。カンカン帽をかぶって、下駄をはいた、背の低いおじさんが、グラウンドの真ん中を歩いてくる。我々野球部員は思うわけですよね。『どこのおじさんだ?』と。それが近藤兵太郎さんだった」

―印象的な登場ですね(笑)僕は映画の中の永瀬正敏のカッコいいイメージが強いので、カンカン帽を被った背の低い妙なおじさん、というイメージは新鮮に感じます。

「野球部の先生が、近藤先生を紹介してくれるわけですよ。だけど、その時僕らは近藤兵太郎が台湾で嘉義農林学校を準優勝に導いた人だとか、松山商業高校のOBだとか、全然知らないわけです。だから、みんな戸惑いましたよ。『この人ほんとに野球をする人なのか?』とね。見た感じ、野球をするイメージがないわけです」

―そもそも野球がうまい人なのかどうかもわからないと。かなり怪しいですね。

「本人も『僕みたいな、背の低くて指の短い人は野球をするのに向いていない』と言っていました。野球選手としては、指が短いとボールを握りきれなくて不利なんですよ」

―いわゆる野球をしていそうな体型ではないわけですね。

「でもその後に、『だけど僕は野球が好きなんだ』と言われたんです。その一言が印象的でした。近藤先生の言葉に『球(たま)は霊(たま)なり。霊正しからば、球また正し』という言葉がありますが、まさにそういうことですよね」

▲近藤直筆の「球は霊なり」のサイン。

近藤の言う「霊(たま)」とは、すなわち精神のこと。

近藤は、野球をする上で大事なのは技術や力もさることながら、「霊」=精神にあると説いていました。林さんから聞く実際の近藤は身長172cmの永瀬正敏よりも背が低く、指も短い。おおよそ野球をしそうにない体型の持ち主でした。そんな近藤が言った『だけど僕は野球が好きなんだ』。この言葉には、選手の体格や技術ではなく、野球に対する姿勢を重視した近藤の『霊』が表れているのではないでしょうか。

(次回に続く)

次回は、鬼監督と呼ばれた近藤兵太郎のスパルタとも言うべき『鬼練習』について紹介します!
現代では考えられない究極の「特訓」は学校行事があろうが雨が降ろうが関係なく続く…!なぜ林さん含む野球部員は地獄の特訓についていくことができたのか?
次回に乞うご期待ください!

語り手:林 司朗(はやし・しろう)
昭和8年、愛媛県松山市生まれ。新田高校野球部2年のとき、近藤兵太郎が監督として赴任。近藤野球の薫陶を受け、卒業後は高校野球の審判を約60年間務める。仕事は製麺の研究開発に邁進。冷凍うどんや美川そうめんの開発に携わる。自社の新栄食品を昭和46年に創業し、松山名物「松山ラーメン」や「美川手のべ素麺」などの製造販売を手掛ける。

聞き手:田村 ヨリアキ
愛媛県松山市在住のフリーライター。

写真提供・監修:古川勝三(愛媛台湾親善交流会 会長)