山口市街からずっと北東に向かって、着物の懐の合わせ目のように連なっていく山並みが島根県境に近づいたあたりに、佐波郡(さばぐん)柚(ゆ)野村(のそん)(現在の山口市徳地)がある。民家もまばらで、1955(昭和30)年に竣工した佐波川ダムの建設のため、村の中心部の200数軒が水底に沈んだこのあたりは、雪も多く交通も不便な地域だが、ここで生まれたのが、現在、台湾南部の都市・台南の観光スポットとして人気の高い「林(はやし)百貨店(ひゃっかてん)」を創立した林方一(はやしほういち)(1883‐1932)である。方一は4歳で母親を、7歳で父親を亡くし、姉ひとり弟ひとりの3人兄弟で叔父に引き取られ大きくなった。19歳で里を離れ山陽鉄道株式会社に就職したのち、29歳のとき新天地に希望を抱いて台湾へと渡る。その際に、方一は地元の友人たちに「吾若し臺灣の 三越大丸たるを得ずんば再(また)と卿(けい)等(ら)相(あい)見(み)ざるべし。」という勇ましい言葉を残している。
台南の日吉屋という呉服商で勤め始めた方一は、懸命に働き帳場を任されるようになり、1918年(大正7)に独立して林方一商店を開いた。呉服以外にも各方面に商才を発揮した方一は、当時の都市計画で幹線道路となる予定だった土地を手に入れ、1932年(昭和7年)の8月20日に現在まで残る林百貨店(臺南市(タイナンシー)中西區(ツオンシーチュイ)忠義(ツオンイー)路(ルー)二段(アードゥアン)63號(ハオ))の建設に着手する。しかしその後、過労が祟ったのか体調を崩した方一は、11月に台南病院に入院。それから、ずっと夢見ていた12月5日の開幕式に出席することなく、12月10日にこの世を去る。享年50歳。亡くなった方一を乗せた霊柩車は、開幕したばかりの林百貨店の前で別れを惜しんでから、火葬場に向かったという。
方一亡きあとは、方一の妻・としが中心となって台湾人や日本人スタッフと共に商売を盛り立て、林百貨店は当時の地元民の憧れの場所となる。上階の洋食レストランではトンカツやオムライスが供されたが、その値段は当時の一般的な台南人の一か月分の給料というほど高価だった。
日本の敗戦と共に廃業(屋上には今も米軍爆撃の跡がのこる)した林百貨店の建物は、戦後は国民党政府の事務所として使われていたが、1980年代以降に廃屋となり、地元でも「お化けビル」と呼ばれていた。そんな林百貨店が復活したのは、市(し)定古跡(ていこせき)に指定されたあと。2010年より修復工事がはじまり、2013年に台南の旬なクリエイティブを発信する施設『林百貨店』として蘇り、台南を訪れる観光客にとって外せない名所となった。林百貨店で広報を務めていた曾芃茵(ツォンポンイン)さんのこんな一言が印象的だ。
「かつては台南からひろい世界が見渡せる場所だったけれど、今は世界から台南を見てもらう場所、それが林百貨店なんです」
復活した林百貨店を訪れた。
台湾で最もはやくひらけた古都である台南。その街で初めて出来たデパート、初めて出来たエレベーターのある建物、当時の台南で最もモダンな建築。林百貨店の端から端まで、山口県の山中の貧しい村からひとり台湾へと渡った青年のあふれんばかりの夢が詰まっているのだと、胸がいっぱいになった。台湾は当時、日本の領土ではあったけれども、同じく日本の貧しい庶民にとっても、夢を叶えられるかもしれない「宝島」だったと思う。林方一亡き後も、支配人・藤田武一はじめ林デパートの経営に当たった多くが山口県の出身者だったという。「山口弁」が飛び交っていたかもしれない、当時の超モダンで最先端のデパートを、思わず想像してしまう。
ブログ「台北歳時記~Taipei Story」
MOBURU+編集部レコメンド!「台湾と山口をつなぐ旅」
今回、記事を書いて下さっている栖来ひかりさんの著書「台湾と山口をつなぐ旅」は、山口出身である栖来さんが故郷をめぐりながら明治・大正・昭和と、台湾とゆかりのある人物を紹介していく物語。台湾と西瀬戸エリアを繋ぐ架け橋を目指す私たちMOBURU+として、とても共感する内容となっています。
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