コロナ禍の昨年の秋、宜蘭県南方澳で日本と四国の交流史を記念する国際フォーラム「南方澳漁港百週年」が行われました。宜蘭県は太平洋に面する台湾の東側に位置し、沖に黒潮が流れる好漁場です。同県の南方澳漁港はその好立地を生かし、台湾で基隆、高雄に次ぐ水揚げを誇っています。
フォーラムは南方澳漁港築港から100年を記念して行われ、16名の専門家が招きいれられました。オープニングで宜蘭県政府文化局局長の呂信芳氏とスロバキア共和国代表がご挨拶されました。また、土佐清水市の泥谷光信市長と宇和島市の岡原文彰市長が、リモートで挨拶されました。高知大学の吉尾寛名誉教授と、「台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯」などの著作で知られる愛媛台湾親善交流会の古川勝三会長の論文も紹介されました。
南方澳漁港繁栄の歴史は愛媛県三瓶町と高知県土佐清水市から約100年前に多くの漁師が移民し、漁業を行ったことに始まります。吉尾名誉教授は高知県、古川さんは愛媛県から移民した漁師について論文に書かれていました。
古川さんの論文によると、愛媛県二木生村(現西予市三瓶町)から漁師10人が大正13年、南方澳にたどり着き、長いヤスを使い大型魚のカジキを突いて獲る〝突き棒漁〟で大成功を収めたていましたが、台湾総督府は大正15年に内地から南方澳への漁業移民を募集。高知県から漁師20戸89人が移民。愛媛県二生村からも昭和2年18戸59人が移民したそうです。
移民した二生村の漁師たちは突き棒漁でしたが、高知の漁師たちはハエ縄によるマグロ、カツオ漁でした。このため対立することなく共存し、漁港周辺には料亭や造船所、機械工場ができました。また、宜蘭市街地とも広い道路が開通したため、経済発展を遂げていったそうです。
南方澳には今も、台湾らしい南国風景や温かな人情が息づき、黒潮と共に生きた四国の先人たちの足跡が刻まれています。
ご縁は、コロナ禍にもかかわらず、改めて結ばれました。
ぜひ、規制が緩和された後は、訪ねていただければうれしいです。