愛媛県松山市在住のフリーライター、田村ヨリアキです。
この連載記事「【実録!】近藤兵太郎」では、松山出身の野球監督・近藤兵太郎についてご紹介してきました。
近藤兵太郎といえば、松山商業高校野球部を初の全国出場に導き、1931年には台湾の嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)野球部を甲子園準優勝にまで導いた名将。
台湾で制作され、俳優・永瀬正敏が近藤兵太郎を演じた映画『KANO 1931海の向こうの甲子園(2014年/台湾)』などでも有名です。
この記事を書くにあたり、私は近藤の教え子であり、数少ない近藤の個人写真を撮影した林さんに話を伺いました。林さんは新田高校在籍時に、台湾から帰ってきた近藤から直接野球を教わったことのある方です。現在は「松山ラーメン」などの製麺販売で知られる新栄食品の社長を努められています。
「【実録!】近藤兵太郎」最終回となる今回は、近藤の「規則破りの野球論」について林さんから話を伺いました。
【実録!】近藤兵太郎 第三章
「規則破り」の近藤野球!
林さんは新田高校を卒業後、58年間にわたって高校野球の審判員をつとめられました。
審判員として改めて野球のルールに触れていくうちに、気付いたことがあったそうです。
林司郎(以下、林)「審判員の観点から見ると、近藤先生はルールのギリギリを攻めていることがわかったんですよ。とにかく近藤先生は規則破り。ルールブック糞喰らえ。勝つためには手段を選ばない人でした。もちろんルールは守らないといけないけど、ルールを守っていては相手と同じやと。だからルールのギリギリをせめろと言っていましたね」
勝つためにできることはなんでもやる、という勝利への執着が「規則破り」の近藤野球を生んだのです。
では、具体的にどんな「規則破り」をしていたのでしょうか。
あれもこれも近藤が発案!?規則破りの近藤野球
林さんの話によると、今は禁止されている「ピッチャーボーク」や「隠し球」も近藤が当時発案したと言います。
林「隠し球は当時新しかったね。ピッチャーベースにみんな集まって、ファーストのミットにボールこっそり隠して解散して、プレイが再開したらファーストが隠してたボールを出してランナータッチアウト。みんなびっくりしよったよ。でもその当時は前例がないから審判もアウト!って言うしかないからね。それから少しずつルールは変わっていったけど」
他にも、今となっては当たり前となっている「ヒット・エンド・ラン」や「ホームスチール」といった野球技法も近藤が編み出したものだと言われています。
林「ヒット・エンド・ランって先生が発案したんよね?と聞いたら、先生は『いやあ、僕じゃないよ』と言ってたけどね。でも僕は一番はじめに編み出したんはえらい、と思う。考えてもみてください。なんもないところからそれを思いついたんですよ」
近藤は他にもバットを改造したこともあるそうです。
林「バットの先をきるんですよ。高校生の中でもよっぽど力のある奴が使うような、重たくて木の質が良いバットの頭の部分を少し切り落とす。それで目方が軽くなって、振りやすくなる。その当時はそういうのもアリだった」
さらに、完全に反則とも言えるような技も選手に仕込んでいました。
林「ラインの外にね、あらかじめ球が跳ねた跡をつけておくんですよ。ライン上にボールが飛んできたら、その跡を見せてファールボールですよ、と言い切る」
また、野球のルールを逆手にとった、こんな作戦も実行していました。
それは夏の暑い日の試合でのこと。守備側は3つアウトを取るまで交代できないため、その間を炎天下のグラウンドで過ごさないといけません。
そこで近藤はできるだけ相手チームを守備のまま交代させないように焦らしたと言います。
林「自分たちが守ってる時は三者凡退でサッと上がってね。相手が守備になったら、できるだけ長く守備をさせる。相手にボールを投げさせて投げさせて…2ストライク3ボールまで粘ると。できる限りファールボールを何回も打って…それをいやらしいほどする。すると相手は暑くてどんどん体力が削られていくでしょう」
近藤の徹底ぶりは、当時試合相手の高校にとことん嫌われていたようです。
しかし、その徹底ぶりが、勝利に繋がっていたことは言うまでもありません。
「規則破り」の背景にあるもの
勝つためにルール無用、規則破りの野球をしていた近藤ですが、逆に言うとルールには精通していました。
近藤は松山商業高校野球部で監督をつとめていた頃、アメリカからルールブックを取り寄せ翻訳してもらい、かなり読み込んで野球の研究をしたそうです。
その研究の結果、「野球とは守りのゲーム」だ、ということに辿り着きました。
林「僕らが近藤先生から教わったのは『野球は1点とったら、それを残りの回ずっと守るゲーム』。結論から言ったら、勝つためには1点取るだけでいい。5点も10点もいらんのですよ。それよりは相手に点をやらないためにはどうしたらいいかを考える。それが野球だというわけです」
点が多い方が良いように見えますが、近藤にとって点数は関係ありませんでした。
とにかく「勝つ」ことを念頭においていたのです。
さらに近藤は『野球はゲームじゃない。喧嘩だ』とも言っていたそうです。
林「喧嘩するくらいの気持ちがないと勝てない、ということなんですよ。あのワーワー騒がしい甲子園球場の中で、ピッチャーはストライクをとらないといけない。バッターはランナーを走らせないといけない。だから喧嘩するつもりでいけと」
少しも相手に点を許さないためには「喧嘩するつもり」でグラウンドに出る必要があったのです。
近藤の勝つことへのこだわりは、こんな場面でも現れていました。
林「試合に行く前、野球部員は校長先生のところに行って『頑張ってきます』とか挨拶しますよね。そういうとき、近藤先生は一緒に来ないんですけど、あとで何を言ってきたか部員に聞くんです。キャプテンが『一生懸命頑張ってきますと言ってきました』なんて報告した日には、大目玉です。『ばかたれー!負けたら死んで帰るくらいのこと言うてこい!』と言われていました」
近藤は野球のルールを読み込み、ルールぎりぎり、時にはアウトな方法を使ってでも勝つための努力を惜しみませんでした。そしてそれはグラウンドの中だけではなく、外でも行われていたのです。
情報を制する者が勝つ!?グラウンドの外も戦場だ!
近藤は常日頃から情報を制することを重要視していました。
自分のチームの情報は他のチームに漏らさない。漏らすとしても嘘の情報を漏らす。
逆に相手チームの情報はできるだけ盗む。これを徹底していました。
例えば、相手高校の偵察もよく行っていたようです。
今は敵チームの試合を映像で確認して対策を練ることがありますが、当時は非常にアナログな方法で行われていました。
林「松山商業高校と松山東高校。今はビルが間に立っているのでお互いのグラウンドは見えないようになってますが、昔はみえてましたからね。だから、偵察にもよく行っていました」
さらにはフェイク情報を流す手法も用いていました。
近藤は銭湯でこんなことを言ったそうです。
林「先生は敵チームの近くにある風呂屋に行って『もうあそこの高校には勝てる』と言いふらしよったんよ。『あのピッチャーの投げ方は、克服したけん、大丈夫じゃ』とか言ってね。近藤の言葉は噂になって、敵チームにも流れていった。相手のチームからしたら精神的に動揺するよね(笑)でも近藤先生が言ったことは嘘で、実際は克服してないわけよ。今頃の言い方をするなら『セコい』ことになるんかもしれんけど…(笑)」
また、情報を大事とする近藤にとってはマスコミは敵でした。
それで近藤は部員たちに情報を漏らすなと告げます。
林「試合で球場に行ったらね、まずキャプテンと副キャプテンの二人が先生に呼ばれます。何をやるかと言うと、マスコミ対策。新聞記者の人は『ピッチャーの調子はどんなですか?』とか聞いてくるんですよね。でも近藤先生は『新聞記者は敵だと思え!新聞紙に情報が載ったら、チームの情報は相手のチームに筒抜け。ピッチャーの肩の調子がええ、とか、カーブがよう曲がる、とかどうとか、そんなの冗談じゃない。お前らのところに報道陣が来たら、適当に「なんもできません」とか相手の喜ぶようなことを言うといちゃれ!』と、こう言うわけです」
当時のスポーツ界において、情報に価値を見出していた人は少なかったはず。常に勝つために何ができるか考えていた近藤だからこそできた、情報統制でした。
【実録!】近藤兵太郎 第四章
教育者としての近藤兵太郎
これまでの連載を通して近藤の様々な側面を皆さんは見られてきたことでしょう。
近藤を表す言葉には「鬼監督」「野球の虫」「規則破り」など、物騒な言葉が並びます。
しかし、近藤は野球監督としてだけでなく、教育者として非常に優れた面を持った人でした。
例えば、林さんの話によると子供を叩くことは一切しなかったそうです。
これは、体罰の禁止が徹底されている今としては当たり前のことですが、当時としては珍しいことでした。
林さんは当時の高校野球のことをこう語ります。
林「昔の高校野球は、高校にもよるけれど『叩かれて顔が歪んだら一人前だ』と言われてました。『顔が歪んだら、レギュラーになれる』『顔が歪んだら大学に入れる』『叩かれもせんやつはやめた方がええ』とかね。今では考えられんけれど、叩かれることが一つの勲章みたいなものだったんよ」
戦後の日本では体罰が美化される風潮がありました。
体罰は悪いことではなく、むしろ良いことだと捉えられていたのです。
しかし、その功罪はのちに顕在しました。
林「そうやって部員を叩いて叩いて作ってきたチームはね、あとが続かんのよ。いずれ崩れてしまう。甲子園に行ったとしても、卒業してOB同士になると、もう繋がってない。バラバラなんですよ。そこへいくと、我々の新田高校はOB繋がってますよ」
新田高校のOBが今も仲が良いのは、当時の近藤の指導方法による影響も大きいことでしょう。
近藤はスパルタ教育とも取れる鬼特訓を部員たちに課してしましたが、部員に手をあげることは一度もなかったと言います。
その理由について林さんはこう語ります。
林「近藤先生は『叩くやつは言葉がないやつ』と言っていました」
つまり、言葉で指導できない教育者が、言葉より先に手が出るのだ、と近藤は言っていたのです。
近藤は手を出さない代わりに、短い言葉で端的に部員たちに指導をしていました。
林「グラウンドの端から端まで届くカン高い声でいろんな指示を出してましたね。あんまり理屈を言うような人でもなかったですけど、ちょこちょこっとね『こういうボール投げるときはこうだよ』『相手の心理はこう読むんだよ』とか我々にズシっと響くような、感心するようなことを言うんですよ。みんなを集めて長い訓示をしたことは一回もないですね。そういうところを魅力に感じて、子供たちがついていくんかなと思います」
また、近藤は単に野球がうまい人を作ることに血道をあげていたわけではありませんでした。
林さんによると近藤は『野球を通じて、社会に出るときに通用する人間を作る。そういうふうに私は子供を指導する』と言っていたそうです。
そのため、近藤はプロに行くような選手を作ることを目的にしていませんでした。結果的にプロに行く人はいても、それを推奨していたわけではありません。
林「それから天狗は野球選手になれない、ともよく言ってましたね。新年度になると『中学時代4番でエースでした』みたいな一年生が肩で風切ってやってくるんですが、そういう人に対して近藤は『明日から来んでええよ』と言い払っていました」
野球の上手い・下手ではなく、選手の精神性を見つめていた近藤の眼差しがよくわかるエピソードではないでしょうか。
近藤は選手の人間性を尊重していたのです。だからこそ、台湾でも偏見の目を持たず、民族混合の野球チームを作り上げることができました。
さいごに
僕は今年、2回にわけて合計約5時間、林さんにお話をお伺いしました。
とても流暢で、時に笑いを交えながら、楽しそうに近藤の話を語る林さんに、僕は魅了されました。
林さんに、近藤とはどういう人だったか、改めてお伺いしました。
林「僕は野球人、いろいろ知ってますよ。だけど近藤さんのような…いつまで経っても変わらない、頑固というか、ニヤけたところがない人はいないですよね。だからね、野武士みたいなもんだと思います」
野武士という言葉を聞いて、僕はとてもぴったりくる表現だと感じました。
どんな手段を使ってでも戦いに勝っていく。
そういった力強さ、たくましさを近藤の話から感じたからです。
近藤を間近で見てきた林さんだからこその表現だと感じました。
取材も終わり頃、林さんに近藤と出会ったことについてどう思われますか、と僕は尋ねました。
すると林さんはこう答えられました。
林「僕は近藤先生という良い人に教わったなと。恵まれていたなと思います。だから私は生きている限りこういう形で近藤先生にお仕えしたい。近藤先生の話をこうして伝えていきたい」
林さんが湿っぽく話を閉じようとされたので、僕はいい取材ができたと思い、ボールペンをノックしてメモをとるのをやめました。しかし林さんは「ただ…」と言い、こう続けます。
林「わし、あの世に言ったら近藤さんに怒られる。『お前ペラペラペラペラ喋りやがってクソバカがー!』って絶対怒られる。『わしは今まで…なんのために黙ってきたんぞ林!』と。『わしが死んだおかげで、お前は台湾にまで行ってわしのことをペラペラ喋りやがって…』と。そう言う人なんですよ。近藤さんは。そやから、わしはようあの世にいかんのですよ…(笑)」
林さんは苦笑しながら、そう言いました。
林「先生はね『僕はやって終わった人間だから何もいうことない。まつりあげないでくれ。何も残すな』
多分そう言うよ。それが天晴れと言うのか、近藤兵太郎さんという生き方なのか。やっぱり、野武士なんですよね」
近藤は新田高校で林さんと出会ったおよそ16年後の昭和41年5月19日に帰らぬ人となりました。
享年78歳。
死の間際に書き残した辞世の句は、近藤らしい一句でした。
「球を逐(お)いつつ球に逐われつ
たまの世を終わりて永久の霊石のした」
語り手:林 司朗(はやし・しろう)
昭和8年、愛媛県松山市生まれ。新田高校野球部2年のとき、近藤兵太郎が監督として赴任。近藤野球の薫陶を受け、卒業後は高校野球の審判を約60年間務める。仕事は製麺の研究開発に邁進。冷凍うどんや美川そうめんの開発に携わる。自社の新栄食品を昭和46年に創業し、松山名物「松山ラーメン」や「美川手のべ素麺」などの製造販売を手掛ける。
聞き手:田村 ヨリアキ
愛媛県松山市在住のフリーライター。
写真提供・監修:古川勝三(愛媛台湾親善交流会 会長)