文・写真提供 古川 勝三
磯永吉(1886~1972)は、広島県福山市で生まれた。東北帝大農学科(札幌)を卒業し1912年、台湾総督府の農事試験場育種係技手として赴任し、稲の品種改良に従事した。これが生涯の仕事となった。磯25歳のときである。以後、技師に昇進した磯は、台中農事試験場長に赴任し不可能と言われた台湾種と日本種を交配「嘉南2号」「嘉南8号」の育種に成功した。
その後、欧米留学を終えた磯は、総督府農事試験場種芸部長、中央研究所種芸科長等を兼務。多忙な中で末永仁技手が発見した「若苗」育成の科学的根拠をC/N比(窒素率)を使い解明した。これによって台湾での日本種の栽培法が確立し、「中村種」や「嘉義晩2号」等が台湾農業に一大変革をもたらした。中でも磯の指導で末永技師が交配に成功した「蓬莱米」の代表的な開発品種「台中65号」は食味に優れ、一気作二期作共に適していたため、栽培農家の生活を一変させ経済的に豊かにした。また磯は蓬莱米だけでなく「台中小麦3号」を始めとする小麦の品種改良や大麦、甘藷、亜麻、トウモロコシ、タバコなど裏作物の改良や育種にも尽力した。
やがて磯永吉は、台北帝国大学(現台湾大学)が設立されると理農学部助教授として赴任。2年後には教授として人材育成にも尽力した。戦後も中華民国政府の要請で農林庁顧問を務め、1957年に帰国するまで、台湾で農業指導を続けた。磯の教え子である徐慶鐘、黃栄華、詹丁枝、陳烱崧等は、戦後の台湾農業になくてはならない人材として活躍し、台湾農業に大きく寄与した。これらの功績で、帰国に際し蒋総統は日本の文化勲章に当たる「特種領綬景星勲章」と一時金5千ドルを贈り、台湾省議会も生涯年金として「蓬莱米」20俵、1200㌔を毎年贈り続ける決定を行い実施した。まさに台湾政府も認める台湾農業に一大変革をもたらした農学者であり「台湾農業の父」と言っても過言ではない日本人であった。