愛媛県

【連載】林さんが語る「知られざる近藤兵太郎」 第一回

今回MOBURU+では、新田高校で近藤兵太郎から野球を教わっていた新栄食品(松山市)の林社長に、話を聞きました。

近藤兵太郎といえば、松山出身の有名な野球監督。松山商業高校野球部を初の全国出場に導き、台湾の嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)野球部を甲子園に何度も導いた名将として知られています。

このあたりのお話は台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」の中でも触れられているため、ご存知の方も多いのではないでしょうか。しかし、大のマスコミ嫌いだった近藤は、記者の取材に応じず、写真さえもなかなか人に撮らせなかったと言います。

近藤はさまざまな華々しい快挙をなし得ながら、公の場で自分自身のことを決して人に明かさなかったのです。そのため、近藤がどんな人だったか、ということは身近な人しか知り得ません。

そこで、我々は新田高校で晩年の近藤から直接野球を教わっていた、林さんにお話をお伺いしました。林さんは高校2年生の時に、台湾から戻った近藤兵太郎と出会い、野球を教わることになります。当時の林さんから見た近藤はどんな人だったのでしょうか。また、どんな風に野球を教わっていたのでしょうか。70年の時を経て、近藤の知られざる素顔が今明かされます。

第一回「近藤兵太郎、新田高校に現る!」

 

−近藤兵太郎は、戦後(1946年)台湾から日本に戻り、新田高校の初代野球部監督になられたそうですが、どのような経緯でそうなったんでしょうか?

 

林 社長(以下:林)「近藤先生は台湾から引き上げてきて、最初は済美高校の事務職をしよったんです。台湾でも簿記の先生をやっていましたからね、事務作業はお手の物です。そこに新田の野球部の先生が行って『野球部の練習を見にきてもらえないか』と頼みに行ったのがきっかけでした」

 

−済美で働きながら、野球部の監督をされるわけですか。

 

「そうです。15時まで済美高校で事務員として働いて、15時30分からは新田高校に来て野球部を見る」

 

−それって、近藤さんが台湾にいた時と似ていますよね。嘉義商工学校という女子校に簿記教諭として働きつつ、嘉義農林学校で野球を教えて、という。

 

「そうそう。似てますよね」

 

ーそれで新田高校に近藤さんが来られるわけですが、林さんは当時高校2年生だったんですよね。初めて見られる近藤さんはどんな印象でした?

 

「バックネットのところから見ると、ちょうどセンターの後ろ、校舎と校舎の間から人影が見えるわけですよ。カンカン帽をかぶって、下駄をはいた、背の低いおじさんが、グラウンドの真ん中を歩いてくる。我々は思うわけですよね。『どこのおじさんだ?』と。それが近藤兵太郎さんだった」

−印象的な登場ですね(笑)

 

「それで、野球部の先生が『この人が、これからわしらを面倒見てくれる近藤先生だ』と紹介してくれるわけですよ。だけど、その時はこのおじさんが台湾で嘉義農林学校を準優勝に導いたとか、松商のOBだとか、そういうことを僕らは全然知らないわけです。だから、みんな最初は戸惑いましたよ。『この人ほんとに野球をするのか?』とね。見た感じ、野球をするイメージがないわけです」

 

嘉儀大学キャンパスでひと際目立つ巨大なモニュメント。1931年、近藤兵太郎率いる嘉義農林学校が台湾代表として〝夏の甲子園大会〟に出場し、準優勝したことを顕彰して造られた。硬式ボールを模し「天下の嘉農」とつづられている。

 

−どんな人かわからないから、野球がうまいのかもわからないと。

 

「本人も『僕みたいな背の低くて指の短い人は野球をするのに向いていない』といわれました。たしかに指が短いと、ボールを握りきれなくて、不利なんですよね。でもその後に、『だけど僕は野球が好きなんだ』と言われたんです。その一言が印象的でした。近藤先生の言葉に『球(たま)は霊(たま)なり。霊正しからば、球また正し』という言葉がありますが、まさにそういうことですよね」

 

−近藤さんの「霊(たま)」=精神が垣間見えた瞬間ですね。

(次回に続く)

 


松山市「坊っちゃんスタジアム」にある近藤兵太郎の顕彰モニュメント。近藤兵太郎を主人公とした映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」が台湾で公開された2014年に造られた。近藤兵太郎の「球は霊(たま)なり、霊(たま)正しからば球また正し、霊正しからざれば球また正しからず」という言葉が刻印されている。

 

語り手:林 司朗(はやし・しろう)
昭和8年、松山市生まれ。新田高校野球部2年のとき、近藤兵太郎が監督として赴任。近藤野球の薫陶を受け、卒業後は高校野球の審判を約60年務める。仕事は製麺の研究開発に邁進。冷凍うどんや美川そうめんの開発に携わる。自社の新栄食品を昭和46年に創業し、松山名物「松山ラーメン」や「美川手のべ素麺」などの製造販売を手掛ける。